野の花のように



朝、ごみを出しに外に出たら、朝日にキラキラと光る花に視線が吸い込まれた。

なんだろう、この圧倒的な存在の光。

栴檀草に額縁のように彩られて、佇んでいるハマユウ(浜木綿)の花。

光を受けているようでもあり、またよく見るとそれ自身が光を放っているようでもある。


屋久島の自然は特にそう感じるのだけど、この光は写真に写し取ることが出来ない。

海の水をコップに汲んでも、それが海そのものとは別な何かであるように。

全てがつながっているものを切り離して観ても、それは切り離された極小の一部でしかない。


目の前のそれは、切れ目も区切りもないすべて、完全に大きな世界の一部、切り離されていない生命の輝きだ。

あらゆる景色、生物も非生物も超えて、見える景色のすべてが境目のない存在の一つの光を放ってそこにある。

私たちが意識しようとしまいと、ただそこに在り続けている。


生命って多分そういうことなのだ。

それを切り取って観る、私たちの意識だけが生命の全体から分離している。(様に見える)


ひょっとしたら生命の力の強い土地にいるから、一輪の花の持つ光に気が付いただけなのかもしれない。

だけど、ここは生命の放っている力がより近く感じられる気がする。


命と命を隔てる境界が近い場所。

僕らの意識が隔ててきた他者、他の命との境界を、この島の生命は軽々と飛び越えて頬に触れてくる。

そしていとも簡単に通り過ぎていく。

そもそもそんな境界線はないんだよと言わんばかりに。


先日庭に花壇を作ろうと、石で庭の一部を囲ってみた。

雨の季節は一週間で草刈り前の景色に戻る。

それら作られた線を飛び越えて、彼らはお構いなしに彼我を跨ぎ同じように咲く。

つまりそういうことなんだろう。


全体とつながって在り続ける命の、それはなんという軽やかさだろう。

個であっても切り離されない、何かに拠って立つのでもない。

ゆだねることと一人立つことが同じ状態を示している。

自ずから然り、故に自然。


なんか美しいな、それだけでいい。

本当にそれだけでいい。



私の一番好きな聖書のある一節を思い出した。


「栄華を極めたソロモン王でさえ、野の花の一つほどにも着飾ってはいなかった。」(マタイ6:29)

 (Solomon in all his glory was not arrayed like one of these.)



ずっとミッション系の学校だったので聖書には馴染が深い。

自分の中心以外の何ものにも帰依するつもりはないけど、イエスやブッダ、あらゆるマスターたちが繋がっているあの場所が好きだ。

あの心地よい空に満ちたあの場所を神や愛と呼ぶなら、それは悪くないなと思う。


そしてそれは多分、個を超えた場所。

接続を切り離していない生命だけが、居ることのゆるされた場所。


だから多分、聖地や天国は、今ここにある。

見ることの出来る者にはいつも見えている。


最初からそこに在ると気付いた者から、開かれていた門をくぐるのだろう。

願うなら動植物や子供たちの見ているものを、見続けることの出来る目でありたい。


そこから見える写真に写らない世界を、いつも見ていたい。

一輪の花の、凛と立つ光にそう思った。





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