Let Things Happen


物事が起こるに任せるということの真の重要性は、自分というエゴの存在は、実際には自分というものに対するただの思考に過ぎなかったというところにある。
私を含むすべての総体とその観照者はいても、私自身という存在は思考の中にしかいない。

「私は何もしていなかった 
私は川と共にただそこにいた 
何もしていない 
物事が起こるに任せた 」



〜・〜・〜・〜・〜・〜


子供の頃 
私は朝早く
川へよく行ったものだ 
それは小さな村だった 
川は非常に緩やかに流れ 
少しも流れていないかのように 
そして朝 
太陽がまだ昇っていないとき 
あなたはその川が
流れているかどうか見られない 
それはそんなにも緩やかで 
そして静かだ 
そして朝 
誰もいないとき 
沐浴にまだ誰も来ていない 
それは測り知れないほどの静寂 
鳥さえまだ鳴かない早朝 
どんな音もなく 
ただ静寂が染み渡る 
そしてマンゴーの木の香りが
川面に漂う 

私はよくそこに 
川の遠い端まで行き 
ただ座り 
ただそこにいた 
何もする必要はなかった 
ただそこにいることで
十分だった 
そこにいることの体験は
とても素晴らしかった 
私は水浴びをし 
私は泳ぐ 
そして太陽が昇ったとき
私は向こう岸へ渡り 
広い砂浜で
太陽の下に横たわり
体を乾かした 
そして時には
そこで眠りさえした 

 私が家に帰ったとき
母はよく尋ねたものだ
“朝の間あなたは何をしていたの”
私は“何も”と言う 
なぜなら事実 
私は何もしていなかった 
そして母は
“どうして
 そんなことが可能なの 
 四時間あなたは
 ここにいなかった 
 どうしてあなたが
 何もしなかったなんて可能なの 
 あなたは
 何かしていたに違いない”
そして母は正しい 
しかし
私も間違っていなかった 

私は何もしていなかった 
私は川と共にただそこにいた 
何もしていない 
物事が起こるに任せた 
もし泳ぎたくなったら 
覚えておきなさい 
もし泳ぎたくなったら 
私は泳ぐ 
しかしそれは
私がするということではなかった 
私は何かすることを
自分に強いていなかった 
もし私が眠くなったら眠る 
物事は起こっていた 
しかしそこに
どんなやり手もいなかった 
そして
私の最初の悟りの体験は
この川のそばで起こった 
何もしない 
ただそこにいた 
何百万の物事は起こった 

 しかし母は
“私が何かしていたに違いない”
と言ってきかない 
そこで私は
“オーケー私は水浴びをした 
 そして私は太陽で体を乾かした”
と言う 
それで母は満足した 
しかし私は満足しなかった 
なぜなら何がその川で起こったか
“水浴びをした”
という言葉によって表現できない 
それではあまりにもむなしく
色あせて見える 
川と遊び 
川に漂い 
川で泳ぐことは
そんなにも深い体験だった
“水浴びをした”とただ言うことは
それについて何の意味もない 
あるいは
“私は川へ行き 
 堤を歩き 
 そこに座った”
とただ言ったとしても
何も伝わらない 

普通の生活の中でさえ
あなたは
言葉のむなしさを感じる 
そしてもしあなたが
言葉のむなしさを
感じないとしたら 
それはあなたが
少しも生きていなかったことを示す 
それはあなたが
とても表面的に
生きてきたことを示す 
もしあなたが
生きてきたことが何であれ
言葉によって
伝えられるとしたら 
それはあなたが
少しも生きていなかったことを
意味する 

初めて
言葉を超えた何かが
起こり始めたとき 
あなたに生が起る 
生があなたのドアをノックする 
そして究極のノックが
あなたのドアを叩くとき 
あなたはただ言葉を超えてしまう 
あなたはおしになる 
何も言えない 
ひと言でさえ心に浮かばない 
そしてあなたが言うことが何であれ
そんなにも色あせて 
そんなにも死んで 
そんなにも無意味に見える 
どんな重要性もない 
あなたに起こった体験に
あなた自身が
不当なことをしているように思われる

Osho - Tantra: Supreme Understanding









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