柄杓の中身


我々はフレームではない。
そして我々はフレームでいていい。

覚醒して生きることの本質は地球体験体験なのではと思った。
誤植ではない。
地球で生きるという体験を"体験"することだ。

初めて"見る"や"聞く"をした赤ん坊が、ただそれを深く感じるままでいるように。
同様に"思考する"ということを体験するという感覚を体験することができる。

机や椅子が、対象に対するフレームであるように、意思や思考も一つのフレームだ。
そのように、私達は当てはめたすべてを体験というフレームで認識をしている。

フレームは形のない世界から、そこにある何かを汲み出すための柄杓みたいなもの。
そうやって私達は世界に形や意味を与えてきた。

一つずつ色や形を得たものが、五感を通して実感(実体かどうかを問わない)を持ち、思考を通して意味と連続性を与えられ、世界は自分の物語を紡ぐ舞台になる。

限りなく余分を削ぎ落として、赤ん坊のように体験に深くただある。
体験を受容して逆らわず、一切の抵抗を止めてみる。
フレームをフレームだと知り、なおそれも体験の一部だと味わう。

今のところそれを私は観照と呼んでいる。
柄杓に汲んだ形のない何かがなんであれ、すべてを見送ったら、結局最後まで残るのは二つだけだった。

"ありがとう"
"あいしてる"

結局最後まで残ったそのフレームだけが、柄杓の中身を最も透明な質で表現していた。
宇宙が一つの源に還るなら、多分それが世界を創る元素みたいなものだろう。


すべてを分解して一つに戻す。
私達はまた、それを集めて再構築して世界を創る。
そうやって意識する世界は繰り返し、毎日生まれ直している。

我々はフレーム(思考)ではない。
意思でもない。
形のないもので満ちた宇宙にフレームを与え、それを味わう観照者だ。

だから私達が分かれて存在しているように見えることには意味がある。
体験にはフレームが必要で、フレームは分離を前提にした体験だから。

腑に落ちるほど、シンプルになる。
シンプルになれば、選ぶものを迷わない。

そもそも選ぶ必要はない。
逆らわなければ、宇宙が齎すものは常に最善の質を帯びる。

抵抗しないこと。
対象の真善美に光を当てること。

体験をありのまま受け取り、手放し続けるなら、宇宙はあなたを乗せて流れて行く。

分離は不完全な状態ではない。
永久の未完成が完成と同義であるように、それは完全さの一時的な状態、循環の一部だ。

故に私達は常に最適最善の場所にいる。
逆らわないとは、それを認めることだ。

そうすれば、此処から始めることができる。
今ここに全てがあることを認めることが、受容することだ。

美しいものが美しいと感じられるなら、それはこの分離した完全な世界の中にいるからだ。
体験できる全ての振幅の幅が、この美しさを形作っている。

両側を知り、怖れずにいること。
そしてその見えない道(未知)の真ん中を、自分の中心に繋がって歩いていく。
そんなゲームなのかなとさえ思う。

昔からずっと大切にしている言葉がある。

「世界は美しいね。
 きっと、そうでないことも含めて」







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