続・柄杓の中身


私達は柄杓の中身だ。
そしてそれが最も相応しい形を得るための体験を求めている質的存在だ。
それがbeingではないかと思う。

だから私達は自分がそうだと選んだ質を自分の真ん中に持っている。
それは例えば幸せになりたいというようなエゴや思考の願いとは異なる。
否応なく無意識に選択している自分の質だ。

私の場合は切なさだった。
抱えきれない大きな悲しみや切なさを避けるために、おそらくは避けられなかったその感情そのものを受け入れて同化する事で、直面して壊れてしまうことを避けたのだろう。
それがいつの間にか、自分の真ん中に持つ質に置かれるようになった。

それは自覚して新たな選びたい質を選択し直すまで続いた。
今でも思考の癖の中にパターンとしては残っている。

癖はそこにあると知っていればいい。
避ける必要も否定する必要もない。
ただ共にある。

それを観ている自分として共にあることを許している。
そうすれば自分を含めた世界をそのままに愛せる。
そのままに世界を観れば、いつか握り締めていた怖かったものを、解いて還すことが出来る。
その時そこにあった感情や想いとともに。

何もなくなったときに最後にまだ真ん中にあるもの、それが愛で、それが"質"で、それがあなただ。
それは最後に出逢う者、最初からあったもの。

愛であることを怖れてはならない。
自分であることを怖れてはならない。
私達の本質は、自分だと思っている思考や感情のフレームを充す何らかの"質"だ。

存在の質が自由に流れ出すように生きることだ。
自由とは、そのbeingの質が、自分として選ぶフレームを自在に扱えるようになる事だ。

自在であれ。認識しろ。
常に自分として今選んでいるものを自覚していろ。

あなたが自在なフレームマスターであるとき、あなたを充していた"質"は本質的に自由でいられる。
そのとき宇宙は、あなたを通して自分を体験する。
あらゆるものでいることができる。

あなたは私であり、私はあなたであるということの本質的意味は、私達の意識は同じ"質"を共有している(各々のフレームで切り取られた)視点に過ぎないという事実にある。

喜びを持って遊びなさい。
あらゆることを味わいなさい。
あなたは体験を選ぶ、フレームに入った愛の質なのだから。








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