遠雷を聞いて眠った翌朝は嘘のような暑い日で、十一月とは思えない気温に此処が南国であることを思い出す。
これならば昨日約束した海に行けるな。
なんなら泳げるかもしれない。
そんなわけで一度は押入れにしまわれた浮き輪に空気を入れ、子供と二人外出する。
軽い天気雨を受けながら、ファストフード店の軒先で持ち帰りポテトを待つ間、なんとなくこれを書いている。
天気予報によれば本日の最高気温は25℃、栗生浜は曇り。
やはり島の西側まで来ると風が強い。
北西の風が当たるので、この辺りは本来なら冬比較的寒いエリアだ。
島の真ん中に九州最高峰を含む2,000m級の山々が連なるため、屋久島は島の東西南北で天気も気温も異なる。
標高差があるため、亜熱帯から亜寒帯までのほぼすべての気候があるらしい。
日本にあって屋久島にない植物はないとも言われる。
種の方舟みたいな島だ。
浜には既に先着者達がいて、環状バスタオルに包まれた小学生達が三人とその保護者らしき女性が一人、オヤツを食べていた。
水温はそこそこ低いが確かに入れないことはない。
しかし子供の背丈より高い波が、豪快な音を立てて砕けるのを確認したので、本日は波打ち際膝下の海水浴に留める。
一頻り波と砂で遊ぶ。
薄く紅い色の入った白い貝を子供にもらう。
綺麗なものを好きな人にあげると嬉しいという感情を、人はいつ学ぶのだろう。
人間のそういう部分をとても美しいなと思う。
誰かや何かを愛せる気持ちや、センスオブワンダーを否定されなければ、人はきっと健やかに育てると信じている。
導くとか見守るとか一方的な目線じゃない。
ただ子供と向き合っていると、自分の拗れが綺麗な鏡に正されていくような感じがする。
どの子供もきっとそのために来たギフトなのだと思う。
願わくば遠慮なく受け取って、惜しみなく与えられる友人のようであれたらいい。
時間があったので、大川の下の海岸まで足を伸ばしてみる。
先日の巨大台風なのか、海側からの影響なのか分からないが、最近今までなかった砂浜が現れたらしいと聞いた。
事実、川の流れが変わり、確かに砂浜が現れていた。
しばらく浜を探検し、岩に登る。
地形すらずっと同じではない。
変わり続けるものの中で、唯一の今の瞬間を体験し続けている。
繰り返すことは二度とない時間を生きている。
願わくば失ったものの重さではなく、今ここにある日々の豊かさで、生の価値を味わえたらいい。
学んできたスピリチュアリティに意味があるとしたらそれだけだ。
きっとそれがメメント・モリ(死を忘るる勿れ)や、カーぺ・ディエム(今を生きよ)が、今に至るまで伝わってきた理由だろう。
光芒を垂らす雲と海を見ながら、だいぶ話の出来るようになった子と未来の話をする。
この人がここにいるのが、いつになっても不思議に感じる。
けれど、この人が来てくれたおかげで、世界には一人以上の一人称単位があることを知った。
うまく言えないけれど、1.5人称のような、私と私達の間みたいな不思議な感覚的繋がり。
子供が親のために来てくれている時間はきっと、それが二人称になるまでの間なのかもしれないなと思う。
だから多分あと僅かな日々を、大切に受け取っていきたいと願う。
そんな週末の一日を、いつかの日々の記録としてしたためておく。
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