未知を歩くと道になる


月に二回、一日半断食(夜明けから翌夜明けまで)を習慣にしている。
断食が良いのは身体だけでなく、精神の贅肉を落とせるところだ。

ハングリーさがないと、人は守りに入りだす。
そうすると知らず知らずのうちに失速して揚力を失いだす。
足りないから埋めるのではない、圧倒的な自己実現への渇望が、人を強く前に押し出す正の浮力を与える。

ともすると私達は足りないものばかりを数えだす。
そうして不安に囚われて、失われていく推進力や浮力が私達の人生に与える深刻なダメージを、私達は顧みようとしない。

かつて口髭の物理学者が喩えたように、人生は自転車のように、バランスを取る為には走り続ける必要がある。
そして滑走している飛行機が浮き上がるためには、一定以上の持続的な速度が必要だ。
後ろや足元ばかり見ていたらスピードは上がらない。
前を見て、その速度が当たり前に日常化する頃、気が付くと人は飛翔して、生きることの自由を手にする。

前に押し出す力も、己の本質へと引きつけられる力も、魂の声に導かれている。
魂の声は感情だ。
感じないように生きることは間違いだ。
抑圧を強いられるような世界にあってなお、それでも消えない気持ちに従う覚悟が勇気だから。

何をしたらいいのか、何がしたかったのか分からなくなったら、立ち止まることだ。
自分の形を見失っている。
自分が誰であったのかを思い出すには、最高の自分の最高のバージョンを思い描くことだ。
誰にも遠慮する必要はない。

その時の自分の喜び、自分自身に一致した感覚、空間の広がりと安心感、遠くまで見える感じ、胸の真ん中から広がる深い落ち着き、慈愛、全てに繋がっていると同時に感じる無条件の解放感。
その時の自分の気持ちは、纏う空気は、感じられる色彩はどんなか。

そしてその全てを既に纏い、今ここから生きるのだ。

目的地と現在地を既に一致させた状態が、健全なビーイングだ。
それでようやく、ニュートラルな生の体験を始められる。
あとは不安や心配にエネルギーを削がれないように、集中して喜びの側から今ここを生きることだ。

人は意識的に生きていないと拡散して薄くなる。
薄くなり過ぎると、人生の主導権を維持出来なくなる。
不安を煽る自我の声や、周りに流されやすくなる。

勘違いされやすいが自我の声は魂の声ではない。
自分を批判的に削り、消耗させるのは必ず自我だ。
守る必要ばかりを説き、行動しない理由ばかりを並べ立てる。
そうすれば守る必要のある自分という枠組み(自我)が厚く肥大するからだ。

自我は意識の機能の一つに過ぎない。
現代では私達が怖がり守り過ぎた結果、自我の目的は存在の幸せや喜びではなく、自我自身を肥大させることにすり替わってしまった。
自我の役割は本来、筋道を立てた人生のマネージメントとセキュリティ確保だ。

ナビゲーションは魂の役目。
魂の声にはある種のイノセンス(無垢さ)を含んだ子供のような感じがある。

自我と魂(存在の焦点)の間には、親と子の関係に近いものがあるなと思う。
親の理想とする子に育てるのではなく、子の理想とする親にならなければならない。

最小限のNOでリスクコントロールをし、最大限のYESで人生の望みを肯定すること。
そうすれば私達は自分自身の本質に近い生を、創造して辿ることが出来る。

これでようやく、正面がクリアになった。
あとは目の前の路を、信頼して行けばいい。
歩きだす前に疲れるのはやめよう。
道と未知は同じ言霊だ。
心配したところで、やるべきことは変わらないのだ。

最高の自分の空気を今ここに纏い、喜びを一つ一つ形にしていく。
腹を括って、歩いて行こうか。







0 件のコメント :

コメントを投稿