キャンプ用の折り畳み椅子を持って湊に行き、堤防の上で変わっていく空を観ている。
幸いにして太陽の周りは厚い雲に覆われていて、直射光はここまでは届かない。
いつもなら暑くて撤退する時間になっても、ただ雲間の光を眺めていられる。
子供の頃から空ばかり見ていた。
自分の周りの空間が狭く感じて、だんだんと息苦しくなってくるようなとき、我に返るために水面に上がるような感じだ。
見上げると、ただ単に潜りすぎて呼吸を忘れていただけだと思い出すのだ。
空の彩や雲の形が変わっていくのを観ていると、自分の中を流れていく思考も風景の一部に思えてくる。
人の苦しみは、今ここでない場所を望むときに生まれる。
こうであったらよかったのにと、今ここにあるものを否定するとき、今ここにいられなくなって行き先を見失う。
今ここにいられないとき、人は思考の中にいる。
だから思考が実在しないイリュージョンだと気付くまで、その水底まで落ちて留まってしまう。
落ちていくのは下を向いているから。
上を向けば、心象世界の水面が見える。
水面の上が今この瞬間の体験。
僕らは今ここで触れられるものでしか、愛して体験することができない。
人を水底から引き上げられる力を持つものは、結局美しいものだけなのだ。
正しさは思考と極性の世界(水中)に属している。
正論は浮力にならない。
あるがままの受容だけが触れられる柔らかさがある。
空は私に触れてはくれないが、私が触れることを許してくれる。
そして触れたものは結局、私自身なのだ。
振り返ると虹が出ていた。
虹は神様が君を愛しているという約束の印なんだと聞いたことがある。
多分そうなんだろう。
虹を見ると人は空を見上げるから。
自分が誰だったかをちゃんと思い出せる、そういうギフトなのだ。
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