車窓の果て


一昨日からトルコに来ている。
今はイスタンブールからカッパドキアに向かう高速バスの中。

窓の外には高木のほとんどない、地平まで広がる原野。
おそらくはイエスが歩いた時代から変わらぬ景色。
そういえばノアの方舟が漂着したとされるアララト山は、この国の東方にある。

この土地が豊かなのかどうかさえ傍目には分からないが、荒地の様にさえ見えるこの乾いた国の野菜や果物は、みな瑞々しくて味が濃い。
驚くほど心の開いた人物に、頻繁に出会う。
街中に溢れる犬猫でさえ逃げることがない。
不思議な包容力のある土地だ。

子供は何処にいてもすぐその場に溶け込んでいく。
互いに別の言語を話しているのに意思疎通が出来る不思議。
己が作り出している見えない殻を自覚する。

昨日は朝の散歩中に入ったオープンカフェのレストランオーナーと仲良くなり、午後一緒に海に行った。
子供はその場にいた見知らぬ子と浅瀬で水を掛け合っている。
このボスフォラス海峡の対岸はアジア側、手前はヨーロッパ。
地中海に続く内海には無数の船が渡っていく。
極東から来た旅人が、西アジアの西端を対岸から眺めていることに、不思議な感慨を抱く。



荒漠とした空間を駆け抜けていく車窓の景色が、夜明けの色に染まり始めた。
街と町の間(あいだ)、人と人の間(ま)、朝と夜の間(あわい)。
何かと何かの間に広がる世界、その空間の持つ吸引力に惹かれる。

星と星、原子と原子の間には膨大な空間があるという。
人と人でさえ、滅多に出会えるものではない。

広大な旅をしてようやく出逢えた一粒同士が、求め合っていた引力で宇宙は満たされている。
だから間(あわい)に満ちるものは空ではない。
私達はいつも何かと何かの合間(愛間)を歩いている。

旅はきっと、その何かと出逢うまでの時間なのだ。







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