人の中へ


旅の当初の最終目的地、イズミルに到着した。
ここはギョカンとユウカとマヤの住む家。


遡ると、先日トルコ南部の街メルスィンで合流した我々は、ソウルブラザーギョカンの友人、シネムさんのお宅にお世話になることになった。
白いメルセデスにピックアップされて訪れた部屋は控えめに言っても豪邸。
高級マンションのワンフロアの半分は彼女の家だ。
隣りの敷地のプライベートプールからは夜遅くまで遊ぶ子供の声が聞こえてくる。
そんな街の一角。

シネムは明るく朗らかな女性。
初めて会うはずの人にこんな温かい歓迎が出来るのは何故だろう。
持って生まれた豊かさや人間性以上の何かが、きっとこの地にはある気がする。
出会いから間を置かず二時間以上も話し込み、ファミリーとして惜しみなく迎え入れてくれた彼女の柔らかな優しさは感嘆に値すると思う。
ファミリーソウルのご縁であると感じた。


彼女はスーフィーの旋回ワークのティーチャーでもある。
だが釣られて夕食後に回るべきではない。
イスラム神秘主義のシンボルとも云える旋回瞑想の奥深さの一端を見た。
これは人の意識をエゴから切り離すために鋭く洗練され、体系化された動的祈りだ。
場所が変われば、歴史も手法も変わる。
仏教や神道、禅とも全く異なるアプローチで同じ出口に向かっている。
興味深い経験だった。


翌日はギョカンとゆうかがホストをするソウルギャザリング(サウンドヒーリングセッション)にゲスト参加する。
イスラム教徒が大半のこの国で、このような場を設け、支持されているというのは中々にすごいことだと思う。
オーガナイザーはしっかりしていて、かつ非常に良いバイブレーションのグループだった。
きっと何処にいても自分の振動数がブレなければ道は拓けていくものなのだろう。
ヒーリングの質はホールドする側の意識の場の密度で変わる。
彼らのギャザリングには日本でも何度か参加させて頂いたが、数十人の場をホールドしきる二人の技量と熱量は本当に見習いたい。


同日夕方から夜行バスに乗り、メルスィンを出立する。
バスで寝るのにも慣れてきた。
バスは一晩走り、翌朝西端の街イズミルに到着する。
ここはもうエーゲ海、対岸はギリシャだ。
アナトリア半島の西岸は地中海文化とトルコ、ひいてはアジア文化との融合地点である。
この街にはアルテミス神殿をはじめとするギリシャ文化の遺跡が各地に残されている。
それらは後日廻るとして、まずは休息をとる。

辿り着いたホテルからは美しい眺めが一望できた。
山の頂きまで緑に覆われている景色を、この国にきて初めて見た気がする。
イズミルの大地は地下水が豊富なのだろう。


信じられない配慮だが、ギョカンが事前に町のコミュニティネットワークに掛け合って、日本から来るファミリーの為にだれか部屋を提供してくれないかと話をしてくれていた。
そしてそれに快く応えてくれたのが、隣のOrhanli村のホテルのオーナーだった。
なんと二日間、ちょうどお客さんがいないので、無料で部屋を好きに使っていいと言う。

この辺りはイズミルの別荘地なので、多分に漏れずここも非常に立派な造りのホテルであった。
無料ではさすがに申し訳ないので、何かお礼のボディワークセッションでもさせて頂けないかと申し出たが、「貴方方は私達のゲストだから」と丁重に断られた。
この気持ちを何処に持っていったら良いのか。


あまつさえ翌朝は、足のない我々のためにオーナー自ら近隣の町まで買い出しに付き合ってくれた。
十日以上米を食べていなかったので、これも大変ありがたい配慮だった。
トルコではチーズと野菜は抜群に美味い。
米はリゾット風炒飯にして食べた。
野菜は隣に住む素敵なマンマに頂いた。
丁寧に育てられたズッキーニの芯の近くは甘いものなのだと初めて知った。



二泊の高級ホテルでの休息を挟んで、ここから何日かはギョカンファミリーのおうちの敷地でテント泊をさせてもらう。

これがなかなか良い。
トルコの夏は乾燥しているので、夜が本当に心地好いのだ。
昼間の熱さを除くなら、これほど過ごしやすい場所はないように思われた。
湿気がない夏というのは異国情緒の一つかもしれない。

人工の光も虫もない、ただ美しいだけの星月夜。
毎晩自然に意識が落ちるまで、ただ外で風と夜を聴いていた。


7月9日から二日間はセッションデイ。
ギョカンファミリーのおうちで、トルコの人々を相手にセッションさせて頂ける機会を得た。
トルコの人々が自然にくれるものの大きさに、何かを返せるとしたらここだろう。
受けた恩を彼らに直接返せなくとも、他の誰かに送ることは出来る。

私の語学はそれ程褒められたものではないが、英語が母国語でない人々とお互い英語で話すのはまだ気が楽だ。
しかし地方では一切英語が通じない場合も多い。
当然今回はトルコ語のネイティブスピーカーに、私の拙い英語でヒーリングセッションを行うことになる。

ヒーリングセッションは特殊な単語やイメージが多いため、直訳では意図を取り零してしまいやすい。
ギョカンの通訳は文脈を読みながら、当意即妙に意図を汲み取り補完してくれる。
彼はヒーラーや作家としてトルコでは知られているが、スピリチュアル分野の通訳としても、既に一流の域にいるだろう。
しかもトルコ語-英語に限るなら、おそらくトップクラスかもしれないなと思う。
賢さの半分は人間性、つまり優しさだ。
思い遣りや想像力を持って、平易な言葉遣いを選べる人は、真に優しく賢いのだと思う。
東京で十年程前に、彼と何度か一緒に行ったワークショップ「スピリチュアルイングリッシュ」クラスを懐かしく思い出した。


初日は三名のセッション予定があった。
うち夕方遠くから来る予定の一人から連絡が入り、ご家族の不幸で急遽車を引き返すとのことだった。
縁がないのも縁のうち。
これで今日は二名、ゆったりやれるかなと思いきや、最初の方が盛大に迷われて辿り着けないでいるという。
やっと到着した彼は、誠実で責任感の強いお父さんだった。
数日前に腰を痛めているのにここまで運転してきてくれた。

今回の数日間の集中セッションでは、老若男女あらゆる方々と繋がることが出来た。
15歳の少女の恋の悩みから、壮老年期の人生相談まで。
違う土地、違う人生、違う文化と歴史に根差してはいても、人はただそれぞれを懸命に生きている。
イスラム男性の強く在らねばならないという責任感の重さや、抑圧され制限されてきた女性たちの思いは、戦前の日本の文化のそれに近く感じた。

どの人も愛おしく美しい。
皆初めて会うはずの私に心を開いて話してくれる。
それは文化なのだろうか、民族性なのだろうか。
私達が無意識のうちに構えてきた他者に対する盾は、本当に必要なものなのだろうか。
純粋な大人が心を開いて話すときの力は、とても大きく美しいエネルギーを放つ。
人が自分で作り上げた殻を越えて開花するときには、その生命は燃えるような輝きを見せてくれる。
それが見たくてずっとこんなことを続けている。
共にこの星に生きる魂の輝き。

アジアの果てから果てまで来て、ベースのまったく違う、不慣れだけれどもとても純粋で美しい初心のようなセッションに参加することが出来た。
ずっと何かが出来るようなつもりでいたけれど、本当は人が人に、イノチがイノチにしてあげられることなど、ほんのわずかしかないのだと気付く。

ただ祝福すること。
その生命が、そのイノチの全てを生きていられるように。
その命を含む、この星のすべてが輝いていられるように、ただ心から寄り添うこと。

私のセッションスタイルは、今後もっとシンプルになるかもしれない。
今回の旅はそれを受け取りに来たのだと思う。
より純粋に、余分のないものでありたい。
私達にはもっとシンプルな地図が必要だ。
純粋で単純なものほど容易ではないが、次の私の命の遣い方はこっちだなと直感した。


仕事のあとは、エーゲ海で泳ぐ。
先に待つ家族達に合流して、ついでにシャワーを浴びて帰る。

オフグリッドで自給生活をしているギョカン達のおうちでは、水は貴重なのだ。
完全乾燥式のバイオコンポストトイレは全く匂いがしない。
実際のところ、それは私の経験した世界中のどのトイレよりも快適な空間だった。
乾燥エリアに暮らす快適さを今回初めて体感した。

屋久島の木目細かな湿度も愛しているし、そちらの方が肌には合うだろう。
だが本当に、何処にいても世界は美しい。
私達はそれを見つけられると思えた。
どちらでも構わないし大丈夫だ。
そう思えたなら、本当にただ選べるようになるだろう。
自由になるためには経験が必要なのだ。


シュメールとこの文明のルーツに触れる旅はまだ続く。








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