光の触れる場所


満月の晩には夜は閉じない
雲を越えてさえ 世界はカタチの縁を保ったまま

夜は形のないものが カラダに染み込むための時間
傷は光があなたに染み込むための場所



昇華は境界を越えて、彼我が統合されるときに起こる。
自分の外にあると思っていたものが、自分の内にあると識ったとき。
怖れの対象を拒絶するのではなく、ただ認め、認めた上で自分を手放す。
すると一つになる。

小さな頃は闇が怖かった。
闇が怖い自分を認めて、それが何をもたらすか起きることをすべて許したら、怖くなくなった。
以来夜はガーゼのように寄り添ってくれる友になった。


光と闇があるのではない。
どちらもここにある同じもの。
観る側面が違うだけ。
それは表裏というよりはグラデーションで、存在の質と密度と観る角度の違い。

同様に夜と昼があるのではない。
季節と同じように、昼夜というのは太陽と地球の相対的な位置関係の中で生じる一時的な場所のことだ。(自転と公転の差はあれど)
私達は地球という惑星の上に乗り、昼という場所からぐるりと移動して夜に向かう。自分が地球自身の陰に入るとき夕暮れを、陰から出るとき朝を体験する。
従って時間と空間は同じものの別な切り口である。

そしてあなたとわたしも同じ。
一つの宇宙の樹に連なる別な葉。
存在の宇宙意識の幹から派生した、いくつもの枝、その先端にある隣り合った花。
それらが自由意思を持って出会える不思議が生命。

私達は「足りない」を経験するためここに来て、異なる側面が出会うことで、宇宙に完全さを補完する。
それを成長と呼ぶ宇宙の意思とするなら、私達もまた同じ意思を持つ全体の一部だ。

だから「足りない」や「傷」を怖れないでいい。
かつて賢者が言ったように、傷はもっと大きなものが私達に触れるための入り口だから。
光が入るために、小さな器が何度も壊されて、私達はもっと大きな光の器になる。
そうやって宇宙の完全さは拡大する。

私達に出来ることは、あるがままの自分の完全さを生きるだけ。
自分に与えられた器を閉じないように、信頼して受け取るだけ。

不足や不安に囚われると、宇宙を信頼することは難しい。
だから生きることは挑戦だ。
不足や不安と同じ意識状態の土俵で、宇宙を計ってはいけない。
保証を求めてしまうのは、器が大きくなる余地を示しているから。
大きくなるためには、小さな器は壊れなくてはならない。
でも本当は脱皮は傷ではなく成長だから、自分が変わることを怖れないでいい。
宇宙と生命の理にゆだねて行けば、私達は辿り着けるよう導かれている。
それは種が、己の種類を知らなくても成長するように自然なこと。

だから言えることはいつも同じ。

考えるな、感じろ、己の自然に従え。
偉大なもの、より良きものは己の内を通してやって来る。
己の内にある、より良きものを信頼して進め。

以上







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