時折想い出す、誰も気にも留めないようなシーンなのだけど、映画「フォレストガンプ」の中で一番心に残っている場面がある。
主人公がずっと大好きだった彼女の最期の枕辺で、自分が独り砂漠を走っていた時に見た、壮大な朝焼けの美しさを語る一時。
「私も一緒にその景色を眺めたかったわ」という彼女に
「君も居たよ(you were.)」と彼は応える。
ずっと真っ直ぐに想い続けてきた彼の時間が、なんの虚飾もなく自然に滲み出してきて、彼女が報われていたことにすら気が付かない彼の真摯な優しさが溢れるシーン。
たった二語の中に、彼の人生の全てが詰まっている。
足りない言葉は時に人生を複雑にするけれど、本当の聲は少ないほど伝わる時がある。
言外に溢れたすべてのものに最後に生命を与えるのは、やはりきっと言葉なのだ。
溢れ出すまで満ちてきたものが、言の葉の舟に乗って流れ出すとき、それは意味以上の重さを持つ。
最も深くから出たものだけが、最も遠く、深くまで届く力を持つから。
私達は一人歩く時にさえ、誰かの残したものと共にある。
流れずに重なっていくものだけが、芯と残り櫂となる。
誰一人共に最後までは歩けなくとも、己の真ん中に残された櫂は、いつか漕ぐ手の先に何らかの確かさを与えるだろう。
もしすべての道を肯定できるなら、人は迷わなくなるのだろうか。
それが分からないということの暗さが、辿ってきた道に意味や耀きを与えるのだとしたら。
あるいはすべての道が、正解でも間違いでもないとしたら、人は絶望するのだろうか。
確かさは自分で決めるという不確かさが、生きることの本質だとしたら。
すべてに意味を与える力が自分にあるとすれば、それは福音かもしれない。
自由と責任は隣り合わせだが、それでも生きることは喜びに属している。
私達は自分が空っぽの時にしか、それを受け取ることができない。
押し着せられた思考から自由な度合いに応じて、それに気が付き始める。
生に苦が伴うのは、気付きにはコントラストが必要だからだ。
極性を持たない体験は本当のことだけだから。
今のところ自分にとって、生きることは極性を持たない試みだ。
ゲシュタルト・アウェアネス・プラクティスの中に、「壊れているのなら、直さない」という言葉がある。
なんであれ、己がそうであることを許そうと思う。
自分の中の極性と矛盾に気付き、全部認め、より居心地の良い方に進む。
多分ただそれだけなのだ。
これら言葉や気付きの多くは、ただ坐っている時ではなく、早朝のヨガや躰を動かしている時、空っぽの状態の時に降りてくる。
散歩好きで知られるニーチェは「歩かずに得た知恵を信用するな」と言ったそうだ。
そういえばフォレスト・ガンプもいつも走っていた。
彼はいつも美しい空の心を持っていた。
濁りのなさは最も美しいギフトだから、人の心を打つ。
どんな時も砂漠に明けていく空を望むときのような、ありのままを見る目と、そのままを受け入れられる心を願う。
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