夏至前、上半期の大祓えの禊ぎに、滝に打たれてきました。
毎年行ってる個人的な聖地です。
雨が降ると言われていたのを覆し、程よい薄曇りで気持ちのいい日でした。
さっき家に着く直前あたりからパラパラ来始めたので、待っていてくれてのかも。
今日はわりと一日、自然な心持ちで過ごせました。
この感じが維持できるといいなぁ。
今年は痣にもならず、すべてが清々しく優しかった。[去年の様子]
しかし昨夜の雨で水量もあり、目の前の滝はなかなか壮観。
まだ季節が浅いからか、生きものの気配は少なめだったけれど、
その場所はいつも時の止まっているように、とても深く澄んでいた。
聖地とはきっと、本当は場所のことではない。
受け取り手の中にそれをリスペクトし、受容するための場所があり、そして時間と空間と何者かの意思、その全ての軸がある一点でかみ合ったときに開かれる、神聖な「体験」のことなのだと思う。
山とそこにあるすべてのもの、気配、生命、意思、時間、すべてに心を開いて敬い、明け渡すと、自分の中に何かが入ってくる場所が生まれる。
それは同時に、すべてのものと自分が対等であるという感覚。
敬い、畏れるからこそ、人は自然の中で対等でいられる。
逆らわないこと。流れに身をゆだねること。
滝の流れには、逆らっても決して勝てない。
勝つのではなくただゆだねること、ただ一体であること。
人はなにものでもない。
いつのまにか合掌していた手もほどけて、ただ体の表面を猛烈な水流が流れていくのにまかせていた。
自分の大きな呼吸だけが聞こえる。
この星のために働けますように、私のすべてを使ってください、と昨年は願った気がする。
しかしそうではないということが分かった。
何かのために働くのではない。ただ大きな自然の一部として生きればいい。
自分が偉大な宇宙、自然の一部であることを、ただ受け入れるということ。
何者でもないけれど、全ての一部であるということ。
そうしたらきっと、誰かのキズを庇うことは、自分の痛みを庇うように自然でいられる。
それがきっと心を開くということだ。
手は手だけれど、身体の一部であることをやめられはしない。
人は考えすぎて、きっと離れすぎただけだ。
手先しか見えなくなって、自分がどこから来たのかを忘れてしまった。
本当の身体は目に見えなくて、そして大きすぎるから。
水中の足が冷えて、今朝ぶつけて出来たばかりの足先の傷が疼いた。
その傷は私の傷で、しかし、より大きな自然の一部でもある傷。
それは今、大きな自然に包まれていて、互いが互いを感じている。
なんだかたくさん優しくしてもらった。
深く深く、頭を垂れてお礼をした。
自分に何もできることがなく、とても感謝が深いとき、
人はただ頭を垂れることしかできない。
顔を上げると、少しだけ明るくなっていた。
「またおいで」といわれた気がした。
同じだけ、誰かに優しくありたいと思った。
自然を見るように、囚われも期待もない眼差しで、ありのまま、誰かと向き合えたらいい。
自分のことではなく、自分と相手の間にあるすべてを同時に感じながら、ただ体験し、味わえばいい。
生きるって、解釈することではなく味わうことだ。
味わったら、それを分かち合えば、互いのことがもっとよく分かりあえる。
お互いに感じているものは、お互いを通して感じているもの。
それもまた一つの自然、より大きな存在としての、同じ一つの体験。
帰りのバスと電車でとても眠くなった。
疲れたらしい。人が自分である日常を保ちながら、より大きな自然と交流することが、もっと当たり前になれたらいいのに。
しかし非日常の中だからこそ、見えてくるものもあるのかな。
都市の中でしか体験できないことって、あとどのくらいあるのだろう。
価値観がシフトしていけば、ライフスタイルや人のあり方も変わっていくだろう。
多分、次に自分のやりたいことは、新しいライフスタイルモデルの提示と表現になると思う。
人が自然や宇宙につながって、自分自身として矛盾なく生きるということを、どうやって現実的に調和したライフスタイルの中で実現していくのか。
そのためにはそのインフラになる社会変革や、社会通念に対する革新みたいなものも必要になっていくだろう。
さて何から始めたら楽しいか。
背負い込むつもりはないけれど、私は宇宙の一部としての自分の自然に従っていくだけ。
もうぶれないでいよう。結局従うものは一つしかない。
今日も一日ありがとう。
天と地と、自然と友人達と私自身に、心から
ありがとう。
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